特別支援教育の学習障害と呼ばれるうちの「ディスレクシア」の生徒と関わったときの話である。
正確には、ディスグラフィア(主に書くことが苦手なタイプ)で、読むことでは授業に大きく遅れることはなかった。
ただ、書くことは時間も要し、他の生徒の何倍も労力が必要だった。
そんな生徒の様子を見ているときに、感じたことが
「書くこと」と「書けること」を同じ基準で語ってはいけないんじゃないか?
ということだった。

「漢字の形をとらえるのが簡単でないこと」
「言葉の意味を理解するのが得意でないこと」
そして、「人に理解してもらえる文がなかなか簡単に出てこないこと」
そういう意味での「書くこと」のハードルは確かにはっきりと
その生徒の中に存在していた。
そう、「書けない」という理由が全てここに表出されている。

だからといって、その子の中に
「伝えたい言葉」も「自分の気持ちや想い」もない訳じゃない。
確かにしっかりと存在している。
ただ、伝える術の文字や言葉についての活用や利用が
ほかの人と違うだけに過ぎないのではないか?
その子が興味をもって「聞き」、自分で「考え」、伝えようと「話す」時には、
言葉はその子の中で、書くことと同じように使われているのだから。
いやむしろ、「伝えたい想いや書きたい」ことはあるのだ。

そう考えたとき、「書くこと」=「書けること」として
ディスグラフィアの特性を語ると、
とても大きな認識の間違いを犯しているのでないか?という不安がよぎったのだ。

そう思うくらい、その子の表現しようとする力は、
想像できうる限りの力強く訴えかけるような力を秘めていたのだ。
特別扱いが大嫌いで、みんなと一緒に何でも頑張った。
やらない選択肢は、その子にはなかった。
合理的配慮の視点からも、労力をそこにかけずに思考や表現を磨く時間に当てるのが
妥当と考えていた私たちに、その子は「やれる力がある」ことを日々証明してくれた。
「学習障害」のしょうがいは、その子の障害ではない。
受け手がその色眼鏡で見ることから始まる「障害」なんじゃないかと、
気づかされた事例でもある。

「書くこと」を考える時、「書けること」とは、どういうことか、
今も私には結論のでない違和感を与え続けている。

*「集い場 五葉庵」当主 *NPO法人Accept Base Camp for Teacher 理事長 *華道池坊 正教授1級  *京都検定 2級 *1989~2021 公立中学校養護教諭として勤務 *日本ノートメソッド協会   ・方眼ノートトレーナー  ・10min FOCUS Mapping®初級、中級インストラクター